あとで読む
人は「知っていること」を語りたくなる?意欲と承認欲求の間に、一体何があるのか
「実はタコって、8本の足のうち6本は腕で、2本だけが足らしいよ」
そう得意げに語ったあと、帰り道にスマホで調べてみたら、「諸説あり」と書いてあった。
あの、少しだけ恥ずかしい感覚。あなたにも、ありませんか。
それでも不思議なのは、私たちがまたすぐ、誰かに何かを語りたくなるということです。
なぜ人は、「知っていること」を語りたくなるのでしょうか。
そして「語る」という行為を通して、いったい何を求めているのでしょうか。

知ることは、気持ちいい
まず、「知る」という行為そのものについて考えてみます。
心理学では、新たな情報を得た時、脳の報酬系が反応することが分かっています。
美味しいものを食べたとき、好きな音楽を聴いたときと、同じ仕組みです。
つまり、知ること自体が、脳にとっての快感なのです。
でも、「知る」だけで満足するなら、語る必要はないはずです。
なぜ私たちは、それを外に出したくなるのでしょう。
ここに、もうひとつの研究があります。ハーバード大学の脳神経科学者たちが発見したのは、人間は他のどんな話題よりも「自分自身のこと」を話すとき、最も強く報酬系が活性化するということです。
自己開示ーー自分について語ることは、それ自体が快楽なのです。
「知っていること」を語るとき、私たちがしていることは、相手に情報を渡しているだけではありません。「これを知っている自分」を、表現しているのです。
語ることは、知ることの延長ではなく、自己表現の始まりなのかもしれません。

うんちくと、承認欲求のあいだ
「うんちく」という言葉には、どこか揶揄のニュアンスがあります。
求められてもいないのに語る、押し付けがましい知識。でも、少し立ち止まってみると、「語りたい」という衝動は、「自慢したい」だけではないことに気がつきます。
「これ、面白いから知ってほしい」という共有の欲求。
「驚いてほしい」という相手への期待。
「一緒に驚きたい」という共感の希求。
こういったものが、複雑に混じり合っているのではないでしょうか。
心理学者のマズローは、人間の欲求に「承認欲求」があると述べました。
「承認欲求」はよく、「他者から認められたい」という欲として紹介されます。でも、ここにはもう一つの側面もあることを忘れてはいけません。
自分自身を尊重できることーー自己承認です。
知識を誰かに語り、相手が「へえ!」と反応してくれるとき。
私たちは、他者に認められると同時に、自分の内側にある知的好奇心を、肯定されているのかもしれません。

「諸説あり」が、語ることを豊かにする
冒頭のタコの話に戻りましょう。
「6本が腕で、2本が足」というのは、ある研究者が提唱した説です。
行動観察から導き出された、興味深い視点です。
でも、生物学上の確定した定説かといえば、そうではない。
調べると、「諸説あり」という言葉に行き当たります。
では、その話を語ったのは間違いだったのでしょうか。
こういった見方は考えられませんか。
「諸説ある」ということ自体が、語る価値のある情報です。
ひとつの見方が「正しい」か「間違い」かよりも、世界にはさまざまな解釈が共存しているという事実の方が、よほど豊かではないでしょうか。
語ることは、知識を伝達する行為ではなく、問いを共有する行為でもある。
「諸説あり」に気がついて少し恥ずかしくなったあの感覚は、知ることへの入口にたったサインだったのかもしれません。

語ることで、知識は教養へと進化する
最後に、もうひとつの視点を加えておきます。
認知科学の研究によると、人は誰かに説明しようとするとき、最も深く理解が進むといいます。「プロテジェ効果(protege effect)」と呼ばれる現象です。
教えることで、教える側が一番学ぶ。語ることは、知識を外に出すことではなく、知識をより深く自分のものにするプロセスでもあるのです。
だとすれば、「語りたい」という衝動は、自慢でも承認欲求の暴走でもなく、知的な生き物としての、ごく自然な本能かもしれません。
調べ直して「諸説あり」に行き着いたあなたは、
そのうんちくを語る前よりも確実に、タコのことを深く知っています。
あなたが最後に、「これ、誰かに話したい」と思ったのは、何でしたか?
それを語った時、あなたは何を伝えようとしていたのでしょう。
知識でしょうか。驚きでしょうか。
それとも、「これを面白いと知っているあなた自身」のことでしょうか。
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